2007年05月13日

「音楽の透視術」を持っていたシューベルト

「シューベルトには神の火花が宿っている!」 by ベートーヴェン 1

schubert.jpg Austrian composer, Franz Peter Schubert
(January 31, 1797 − November 19, 1828)

オーストリアの作曲家、フランツ・シューベルト 
(1797年1月31日 〜 1828年11月19日)

31歳で他界したシューベルトだが、その作曲数は膨大である。
例えば、総数595曲2 のリートや600曲弱のピアノ曲。

今回、向井山 朋子 夏の旅〜シューベルトとまちの音〜プロジェクトに携わり、個人的な疑問として、なぜ、「ベートーヴェンとまちの音」や「ショパンとまちの音」ではないのかという疑問、なぜ自宅で聞いているとシューベルトの曲は聞き流してしまうのか、という疑問に突き動かされてシューベルトに関する本を読み、3冊目で非常に興味深い本、村田 千尋著 「シューベルトのリート 創作と受容の諸相」と出会う。 続き
タグ:Schubert
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2007年05月12日

偶然の接点

マーラーはこんなことも言っている。

「たとえば、歌における言葉の発音がそうだ。歌では、音楽的部分の形成も、常に言葉から出発しなければならない。ある楽句がどんなに美しく歌われたにせよ、言葉の響きが十分に生かされないと、聞き手に強い印象を残せないし、聞き手もその原因が納得できないまま終わってしまう。

Mutterというところを、Mu-terと引き伸ばして歌ってしまったら、効果はぶちこわしだ。逆に短くて鋭いTrutzをTru-zと発音したり、要するに変にもったいぶった歌い方をすると、意味も印象も伝わらなくなってしまう。

言葉と音は、肉体と精神のように分かちがたく統一されている。だから理想的な歌曲は、言葉から生まれてくる。もし言葉をふさわしい仕方で発音し、はっきりアクセントをつけて唱えたら、響きは自然と生まれてくる。もし言葉をふさわしい仕方で発音し、はっきりアクセントをつけて唱えたら、響きは自然と生まれてくるといっていい」 

吉田秀和作曲家論集
2 Franz Schubert シューベルト
P.212 より 『グスタフ・マーラーの思い出』からの抜粋


中居栄幸氏の「D+ialogue=2」を読む、シューベルト関連の本を読む、そういったことが現在進行形で起こっている私の生活。二つのことは直接関連がないのに、なにかしら偶然的な出会いを二つの文に感じる。そして、妙に納得する。

Dia-logue.jpg

Eiko Nakai

Untitled Dia-logue 2=1
oil on canvas
120cm X 120cm
タグ:Schubert
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2007年05月11日


今日、Eiko Nakai Solo show at Odori Gallery を見てきました。

中居栄幸氏による展覧会。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
中居栄幸氏は、英国に8年間滞在。建築とARTを学んだのち、帰国。海外で養った奔放性、柔軟性や寛容性、日本伝統の華道(師範)の繊細さ、そして自らが持つ力強さが 様々な形となり、作品が生まれています。
技術の高さ、感性の鋭さは、作品からも、会話からも伝わってきます。栄幸さんとの会話は楽しいだけではなく、彼の芸術への様々な視点は、作品に触れる上で刺激となります。栄幸さんが卒業したロンドンの大学に私も一年滞在し、多くのことを学びました。
栄幸さんは、今後の活動が楽しみな Artist です。
(経歴についての詳細は、会場にCVがありますのでご参照ください。)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


幸せに包まれて.jpg   ● 展覧会期間 : 2007年5月8日〜13日
   ○ コンサート : 中居栄幸 with Yoko
   ○ 日時 : 5月12日(土) 
          5:00pm 会場   5:15pm 開演 
           入場無料
   ○ 会場 : 大通美術館
            札幌市中央区大通西5丁目11 大五ビル
「幸せに包まれて」

愛に包まれて-s.jpg触れることができる絵画たち。
触れてみると、その薄さに驚く。
触れてみて、その細部にまで
こだわった凹凸を
私の手が感じる。

見る方角で、絵が異なって見える。
「愛に包まれて」


4年前のこと。栄幸氏の作品を 一度見でガツンときたというよりはむしろ、後々まで頭の中にしっかり存在し、時が経っても印象が失せず、不思議なことに印象が強くなり、もっとじっくり見るべきだった後悔したことを今でも覚えている。
栄幸氏ご本人とお話をすることで より作品に関心を持ち、見れば見るほど、見たはずでも、何か見忘れたように戻って、その絵とまた向き合いたい気にさせる作品。
対話することで、私自身の中で気づいていない新しい視点、感点を発見し、絵と向き合うごとに作品との距離が近くなる気がすることも。


spring裏.jpg

Haru 裏側

裏側も見ることができる。作品「春 la primavera」↑ では、年輪のような円が絵の中央にあります。油絵の具で消えてしまいましたが、ライン上に多くの想いが書かれていたそうです。



life-drawing-1.jpg

私は、チャコールで描いた栄幸氏のこのタイプの作品からエネルギーをもらう。
なぜかはわからない。

life-drawing-3.jpg





Mr.Ueno.jpg

Mr. Ueno
120cm X 240cm

栄幸氏にとって大切な3組のカップルが一人づつ描かれています。

栄幸氏は、どんな時もキャンバスの枠作りと布貼り、顔料も粉から絵具まで全て自分で手掛けます。
今回、この大きなサイズの肖像画は初試み。

この肖像画は油絵。目にはラピスラズリが使用されています
栄幸氏にとって、ラピスラズリはFra Angelico(「受胎告知」で有名なフラ・アンジェリコ)の色。
神聖であり、語る色。
私にとっては、Jan Vermeer(「真珠の耳飾りの少女」で有名なフェルメール)の色。
ラピスラズリは特別な色。



Eiko Nakai Solo show at Odori Gallery
May 8th − 13th
INOCHI 繋ぐ

大橋 洋子さんに捧ぐ
Mrs.Ohashi.jpg

Mrs.Ohashi
120cm X 240cm


この個展は私の此れまでの5年間作り続けてきた作品に最後の光をくれた透き通った声で唄う大橋洋子さんに捧げる。大橋洋子さんは昨年の4月23日に膵臓癌で他界しました。彼女はオペラ歌手であり私の古典とのコラボレーションを約束していました。しかし、それは叶わぬ願いとなりました。私は彼女が他界してからの一年間、彼女に捧げる作品を造って来たと共に、洋子さんに関わるすべての人のためにこの一年間創作に没頭してきました。私の創作活動と芸術に対する姿勢と概念を根底から変えたと言って良いほどの一年でありました。私の想う理想の芸術とは何で有るかと言う問いの答えに少し近づいた気がします。



D+ialogue=2

私は自分の作品をどのように発展させて行くか、アートとは、芸術とは、何であるかを、再考慮していました。多くは、芸術とは視覚的表現形式で在ると言っています。私が考えている事は、果たして表現するだけで良いのかと言う事。私は根本的に言って、芸術とコミュニケーションという意味を、全体的に見直す必要性があると、強く感じるのです。

Dialogue−対話という言葉、概念は、作品を作る上でとても、重要な役割を果たしてきました。そして、今、一層、前へ進むため、その根本的意味が深まっているのです。

Dialogue−対話〜(定義)二人、又は、それ以上の人の間でなる会話
Dia−(ラテン語)
 Through 〜によって、〜を通じて、通り抜ける、通過すること
 Between 〜二つの間に或るの意
 Across 〜一方から他方側への横断の意

Logue−特定的な話法や言葉による思想の伝達

全ての言葉は、それぞれ、その言葉の秩序が在り、文字やシンボルの組み合わせで成り立ち、一つの言葉として機能しています。
もし、その言葉の文字の配列が、在るべき形から異なっていると、もちろんの事、一つの言葉とした役割を果たす事ができず、ただ曖昧さが生まれ、言葉そのものの意味や存在価値さえも理解されないでしょう。

D+ialogue、Dそのものialogueだけでは、言葉としての意味はなく、ただ、音の在る文字の形でしかない、しかしながら、それが、一つになるとき、言葉としての意味が生まれる。形だけでは、中身がなく、不十分です。

Natsu.jpg
夏 Natsu  l'ete
120cm X 120cm


私は、直接相互的絆と全く異なる性質を持つ、二つ、又、それ以上の存在物によって生じる関係に興味が在るだけではなく、その作品の意味という物が、作品を生む過程の中で作られる事に興味が或るのです。それは、形が、それ自身の意、で満たされ、成り立っている事と関係があるのだと思います。

構造と言う要素自体に、それ自身の言語が有り、それを伝達していて、形が、徐々に構造されるにつれ、意味も、又、手を加えていく過程のなかで構造されていくのです。構造、素材、空間、配置、形と文脈、視覚、感覚的センセーション、そして、見る人と芸術家自身、これらの全ての要素が、一つ一つ同じであり、互いに重要な存在。良い概念が空間に適応するように、一線が自然の流れを持つ時、構造的にも正確であろうと考えます。一つの物が、他の物と離れて点在していて、あたかも、繋がりがない様に思われるが、何処かで繋がっていて、その他の物が、反対に存在しない限り、その一つの物が、存在する事ができない事を示唆をしているようです。それは、私が存在する太陽系の成り立ち、私達の人間関係にも言える事ではないでしょうか。それがどのように意味と関係を持つという事がとても大切な論点で或るのです。

その様な定理が、私の作品にも当てはまると思います。
私にとって、芸術作品を作るという事は、相互的関係の思想に基づいているのです。決して、芸術家一人では、芸術作品はできず、私が変える事ができないたくさんの異なった要素や局面が有るのは事実あり、私の芸術家としての、一つの仕事というのは、それら、一つ一つを、個にまとめ、如何に、一つの調和に生かすことができるかです。

自然は、私達の住む世界の形の表れを、素晴らしく表しています。自然は作られる物ではない、自らの然のものとして存在して、自らを作っている。

しかしながら、私は強く、芸術は自然のようでは有ってならないと感じます。芸術は作る事以上の事を、目指さなければならない。芸術は哲学、宗教的機能の要素が有り、芸術とは、ただ描かれる、作られる、手を加えられるだけでは不十分です。たとえそれが、自然と関わりが有るとしても、形造する事、表現する事を超える必要があると考えます。

時と空間に深さという感覚は、もはや存在しないようだ。人間が無の状態に陥るとき、人は無であり、純粋な精神である事を理解し始める。初めの切り口は、キャンバスへの破壊行為を示すのではなくそれは絵を超えた次元への接触である    

− Lucio Fontana − (イタリア人アーティストからの引用)


私の作品は、完全ないかなる答えでもなく、何が芸術と言うのかについて自分自身が作品との相互的対話への問いを探し求めるために存在する媒体なのであり、なぜなら完全なる答えという物が、必ずしも真実と結びつくわけではないし、人それぞれ、確固たる、自身の誠実性や解釈が或ることから、ただその問いをかけるという目的のために作品を生み出しているのです。

また、その問いかけが私達の概念を大きくし、私達の心の審理を閉ざす教養的な確信を減らすのだと思います。私にとって作品はイメージを描く事、作る事ではなく、私が自分自身と他のいろいろな要素の間(はざま)に生かされ、その中での相互的対話と関係の中で生む、形、意義、印、痕、線、色、空間、自分自身と見る人の感情と思考等が一つになった集合体の様な存在であると思うのです。

私が意味している事は、それは一つの確かな存在であって、観念主義者が表現と言う(描いて表す)と呼ぶ、そして、現実主義者が物と呼ぶ以上の様な、二つの間で生まれる存在物である。

禅の教えの一つで、無が与えられ、そして、私達が無から新しいものを創り上げ、発見するのだと言います。もしかしたら、作品を生むという事は、その概念に近いのかもしれません。それは、修道士が馬鍬を使って庭に線と跡を基本的、根本的な思想、感情、気持ち、又、心の状態など、作品と私が属する物質的森羅と似たような制限された空間、素材と構造の中で一人の精神的存在として表す事に言及するのだと思います。そして、今、私は、作品を超える対話を生み、新しい次元を発見するため、無を解こうとする挑戦と向き合っているのです。   
4月 中居 栄幸


ひめゆりの塔に捧ぐ.jpg

沖縄糸満市 ひめゆりの塔に捧ぐ
240cm X 120cm



(*)ここで使用した画像は、全て展覧会会場で見ることができます。このBlog上では、作品を周りの壁から切り取って表示し、その作品本来の持ち味が表現しきれていないことと、光の反射や影が入ってしまっていることをお詫びいたします。

それでも、もう少し栄幸さんの作品が見たい方は、こちらを!


posted by mandelin-coffee at 04:10| Comment(1) | TrackBack(0) | ART 日本発信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月06日

Artist 井上 廣子

アーティストとして幅広い活動を行う井上廣子氏のブログ制作を依頼され、現在過去の資料や写真を整理しています。



井上廣子氏の作品への姿勢やコンセプトを感じると、「問題に対し正面から向き合うこと」、を考えさせられます。

現在、京都造形芸術大教授の野田正彰氏が、2000年に書いておられる論文、「美術は震災に何を見たか」の中に、井上廣子氏の作品への記述があります。

・・・やはり多くの作品は建物の破壊を描き、人間の悲哀と希望を描き、そこで終わっている。
震災以降の社会がどのようなものだったのか、直視した作品は少ない。
唯ひとつ、井上廣子は仮設住宅の鉄骨を組み立て、4つの寝台を並べ、枕の位置に石塊を置いた。彼女の「魂の記憶、98・7・25−220」(仮設おける孤独死の数をタイトルにしている)こそ、震災後社会の現在を表現している。・・・・


この記述は、井上廣子氏の他の作品にも当てはまります。
「後」も表現する、「現在進行形」を表現する、しようとするArtist 井上廣子氏。

使用する材料が、コンセプトを表現するツールでもあり、その材料や設置方法が作品に大きく影響する、という点。そして、作品と見る側のコミュニュケーションがどう生まれるか、という点などを考える上で、今回のブログ制作で見る資料は、私にとって勉強になります。
posted by mandelin-coffee at 03:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ART 日本発信 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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