2008年07月11日

歯医者へ行く の巻

食事中のガリっと音がし、何か固い物が口の中にあったので、不摂生ゆえ歯が欠けたのかと驚く。実際、それは歯に見えたし、試験中の食生活といったら牛乳とコーヒーで、自業自得かと非常に落ち込みながら、祝日後即、どこの歯医者に行くべきかを調べる。その間もまた欠けたようだったので、深刻さを増し、救急病院にでも行くべきかと悩みつつ、膨大な医療費を心配し、とりあえず、休み明けまで待つ。

歯は元々平らではないので、欠けたであろう場所もわかるようなわからないような。。トロントには意外にも日本人歯科医のいる歯科がいくつかあるので、夏休み中の場所もあったけれど、とりあえず、日本の国民健康保険が適応するという場所に行く。

Downtown-1.jpg


受付では、持ち込んだ「歯」の一部らしき物が、間違いなく歯の一部で、治療無しでは弱っている歯はどんどん欠けます、と言われ、ショックと失った物はどうしようもない、という諦めとともに、自分の番を待つ。

靴を脱ぐこともなく、歯医者特有の椅子に座ったものの、日本人助手、中国人の歯科医も欠けた場所を見つけることができない。ほんの数分のチェックで終了。

5300円の請求。(日本の国民健康保険は不要で、トロント大学留学生義務加入の保険 Green Shield Canada により80%は後で返金)
レントゲンもなく、ぐるっと見てこの金額は、正当かどうかは?だったけど、今回の原因は、韓国人経営のスーパーマーケットで買ったお米に混じっていた「骨のかけら」。その後も、同じお米を食べ続けていると、同じ「かけら」を発見。日本だったら異物混入で問題になるかもしれない。何せ、なんの「骨」かわからないし。。。

それにしても、よかったぁ。。
何せ、歯が欠けるほど老けたのか、とショックだったから。

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2008年07月10日

臓器が震える感覚に近い喜び

テクノロジーに大感謝。

今、授業でドキドキするようなバロック時代の美術建築史を受講しているのだけれど、そこで紹介された Virtual Reality tours Art History Department Williams College のサイトに感嘆!!

Romano-Giants-1ss.jpg


5月の記事「ガラガラと崩れる音を感じる部屋」(上記:ジュリオ・ロマーノの作 巨人の間)で書いた Palazzo del Te(←クリック)が、バーチャル・リアリティで見ることができる。部屋全体が見れるって素晴らしい。

面白いのは、巨人の間だけではない。(是非、まず、巨人の間のサイトを訪れることをお薦め!)
平面図をクリックすると、場所を移動でき、庭、建物のあちこち、外部、内部、床から天井まで見ることができる。

実際に飛んで見に行きたい建築だけれど、こういう形で何度も繰返し、確認しながら勉強できるテクノロジーに大感謝。マウスの使い方が慣れるまで、映像の動きに酔うかも。。

このサイト、実はバロック、ロココ時代の建築物が主。ミケランジェロの残した建築物がどう後世への影響したか、どう発展したかを読む(見る/感じる)のが面白い。
いつの日か、またイタリアを訪れることを夢見ながら。。。
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2008年07月07日

ミニ「天文学史」− 7

今日は七夕。天の川。
というわけで、ミニ天文学史3〜6を飛ばし7。少しガリレオを先に話そうと思う。

イタリア、トスカニー出身のガリレオ(1564ー1642)はコペルニクスの説を天体望遠鏡を用いて擁護。

ガリレオの出版物の中でも第一冊目、1610年に出版した「星界の報告」(Starry Messanger:私なら敢えて詩的に「星からの使い」と訳すと思う)は、 天体望遠鏡を使っての観察による発見の3つの報告書。

1.天の川は密集した星団であること。(当時、天の川が個々の★の集まりであることは裸眼では確認できなかった。)
星々が地球から、そして、惑星からも計り知れないほど遠い場所にあると明記。ガリレオが証明する以前、地球と惑星、惑星と星々の距離感は特に問題ではなく、無限性への意識がなかった。この観念を崩したのがガリレオの発見。
ーー> 宇宙の外周、透明な球を回している天使達は地球から遠くへ行ってしまった。というより、消え去った。意識の中や、アートで、天使は存在し続けるが。。


2.月が地球のように山谷がありボコボコしていることを明記。
月の山の高さが、地上の山より少なくても4倍以上高いとも述べる。
当時としては大打撃な報告。というのも、アリストテレス説、月は完璧な第5元素で構成されているとずーーーっと信じられてきたから。
ーー> すべすべした滑らかな美しい肌を持つと崇拝していた人が、実はボロボロの肌だったとわかった時のショックより、大打撃。

GalileoMoon.jpg


.木星の近くに4つの星があり、メディチ家にちなんだ名を付ける。
地球の周りを月が回転するように、木星にも月のようなものが4つあることを報告。
ーー> 神が決めた惑星システム内の神聖な数である「7」(太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星)を超えるのを許すはずがないとの恐怖。他方、神聖な「4」を強調する勝利の喜び。
アリストテレス説の惑星が完璧な第5元素で構成されている説をぐらつかせる。


Galileo.jpg


顕微鏡の発明なしでは発見できなかった事実、目で見るまでは否定されてきた仮説が、明らかとなった。
実際、誰が天体望遠鏡の発明者かは知られていない。材料(レンズなど)はその前からあったが、発明が遅れたのは技術面ゆえであろう、とのこと。現在の説では、現オランダあたりで1608年に創られたであろう、と。その発明品については、翌年にガリレオの耳には入り、1609年7月までにガリレオは初の天体望遠鏡を手にする。それを年内に改善。裸眼より1000倍大きく、30倍近く観測できる望遠鏡を作成。(上記のガリレオの書の肖像画上、天使が天体望遠鏡を覗いている。)

17世紀の版画、天体望遠鏡のいろんな絵図は、こちらを。(サイトは英語。絵はクリックすると拡大でき、必見。)


アートに影響したことは言うまでもない。
ガリレオが、アーティストでもあった[アーティスト的な感覚を持っていた/アート批評の知識があった]、という論文もある。トーマス・ハリオットの月のスケッチと異なり、ガリレオのスケッチは「光と影」に重きを置いていることや、自説を有力にするために、敢えて上記のような描き方をしている点など様々な要因が、単なる天文学者ではないことを裏付けている。

参考までに、かのミケランジェロが亡くなる3日前にガリレオは生まれ、現在、ガリレオとミケランジェロのお墓はサンタ・クローチェ教会の同じ空間の両サイドで眠っている(とのこと)。ミケランジェロは新プラトン主義(プラトンの天文学説も、星は外球に貼り付いている)であったし、当然ガリレオの説、天体望遠鏡を知らない。


 イギリスで前年に既に天体望遠鏡を使って月を観察したトーマス・ハリオットはそれについて出版しなかったため、ガリレオの書のインパクトが強かった。教授曰く、ガリレオは時間を無駄にしなかった、と。出版と同時に、一晩で著名人になった、とのこと。出版と当時に550部は完売。ドイツ、フランクフルトでも数ヶ月以内に出回っていたことが確認されている。



* 本日、1日アクセス数が過去最高の208を記録しました!
ラベル:ガリレオ
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2008年07月05日

カラヴァッジョ(1571-1610)による天体図

ミニ「天文学史」− 5で説明したタイコ・ブラーへの天体の仕組み、「太陽と月が地球の周りを公転し、その太陽の周りを惑星(水星[マーキュリー]、金星[ヴィーナス]、火星[マルス]、木星[ジュピター]、土星[サタン])が公転している」という修正天動説では、木星と土星が、地球を中心とした球に入ることはない



バロック時代のイタリア人画家、カラヴァッジョ(1571-1610)が、この天井画を制作した時、まだ冥王星[プルトン]海王星[ネプチューン]も発見されていず、冥王星、海王星の命名の際に、カラヴァッジョの天井画から影響を受けた、という記録も聞かないが、この天井画のタイトルは『ジュピターネプチューンプルトン』(1599ー1600)

1599-1600-JupiterNeptunePluto-s.jpg
漆喰の壁上の油絵


カラヴァッジョの作品を見ると、地球を中心とした球には、星座が”貼り付いて”いる。この点では、タイコ・ブラーへと異なる考えを持っていたようでもある。
鷲とともに木星[ジュピター]は、「球」に触れているか、触れそうにも見える。実際、タイコ・ブラーへの図でも、木星は「球」に近い。


ラファエロの壁画と比較すると、天体の知識・認識の差が見えて興味深い。(「ラファエロの間」)
Raphael-Stanza.jpg
ラファエロ作: 1508 to 1511



約100年間での天体への意識の差。


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ミニ「天文学史」− 5

コペルニクスの宇宙の仕組みに異を唱えたのが、 タイコ・ブラーヘ(ティコ・ブラーエ)。

数学的にはプトレマイオスのシステムより優れていることを認めつつ、コペルニクスのシステムでは年周視差の説明ができない、ことを指摘。 「太陽と月が地球の周りを公転し、その太陽の周りを惑星(水星、金星、火星、木星、土星)が公転している」という修正天動説を発表。現代の基準で、観測する研究所を持った「初の(西洋人)観測天文学者」。


[この天体↑が動いている様子を重い描くと、頭デカッチの輪がグルンぐるん回っているように見える。] 

タイコ・ブラーヘ(デンマーク[元スェーデン]1546 ― プラハ 1601死去)は、高貴な生まれ。1560年8月21日の日食に感動した後、コペンハーゲン大学在学中より、独自で天文学の勉強を開始。1562年、ライプツィヒ大学に行く時に、アルブレヒト・デューラーの星座図表を持っていったと言われている。(下記、デューラー作の一例。)




ライプツィヒで、観察を基本とした、より専門的に天文学に打ち込み始める。正確な観測には良い道具が大事であると知っていたので、道具にもこだわる。1566年、ドイツ、ヴィッテンベルクやロストックの大学を訪れる。(中略)1569年以後、計測器などの道具のデザインと仕組みを改良。アウグスブルグで、天体の高度を測定する巨大な四分儀を作成。1570年、父親の重病の知らせを受けデンマークに戻る。1572年11月11日、カシオペア座に超新星(スーパー ノヴァ)を見つける。他にも気付いた人々はいたが、この超新星が単なる彗星ではなく、天体に属することを、これまでの観測に基づき立証したのがタイコ・ブラーヘ。

1574年には、ドイツ、カッセル、フランクフルト、その後バーゼル、ヴェニスを旅。バーゼルに移り住むことを決断したものの、 最も優秀な科学者を失いたくなかったデンマーク国王フリードリッヒ国王は、タイコ・ブラーヘに、デンマークでの観測所の設立を持ちかけ、ベーン島(地図↓)を提供する。そこに作られたのが、ウラニボリ天文台とステルネボリ天文台。

Uraniborg-Map.jpg
Image © Google Map


この二つの絵図は、ウラニボリのもので、タイコ・ブラーヘのドローイングとプラン。ヴェニスでタイコ・ブラーヘが見た建築物の影響を受けており、幾何学が活かされている。

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ところで、この「ウラニボリ」の意味は、『天空の城』。どこかで耳にしたことのあるような名前だが。。。

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器具にこだわったタイコ・ブラーヘは、 当時、最良の科学計器を制作、そして活用。ウラニボリには、天文学調査のための機器、研究所だけではなく、図書館や、製紙機、印刷機、家庭菜園、人工池、果樹園、灌漑システム、小麦粉製造所も設置されていた。


新しい星は視差を示さないゆえ、球にくっついている星は不変であると述べる。コペルニクスの理論では、地球が太陽を公転するため、完全で、不変物質の天体内を、不完全で変動物質である地球が回ることになり、アリストテレスの論を逸脱する。タイコ・ブラーヘも、アリストテレスの完全と不完全の差に関して支持することはできないとする。が、地球が一つの惑星であると考えられず、地球を天体のおおよそ中央に静止させることで、修正案を発表。

教会は、コペルニクスを擁護するガリレオに対し、このタイコ・システムを受け入れる。特に、イエズス会には、多くの天文学者、数学者がおり、タイコ・システムがヨーロッパを超えて(日本にも)伝えられることとなる。

中国で作成された、タイコ考案天文用の設備。↓





★ Reference:
― Lachieze-Rey, Marc, and Jean-Pierre Luminet, Celestial Treasury: From the music of the spheres to the conquest of Space, trans. by Joe Laredo. Cambridge University Press, 2001.

☆ ウラニボリの博物館のサイト 

★ 様々な国の歴史的な天体の絵図が見られるサイト(その想像力に感嘆)
― World Treasures of the Library of Congress

ラベル:宗教 ガリレオ
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2008年07月04日

ミニ「天文学史」− 4

ルターを中心としてヨーロッパを「うねった」プロテスタントの波は、
『出版技術の向上→聖書の翻訳、古典書物の再解釈→より多く読むことによって活性される新らたな見出』を促進しただけではない。

ルターは、聖職者と平信徒との格差を少なくするためにも、結婚を積極的に勧め、信者が集まる席での合唱を奨励する。ルターは、説教を聞くだけの聴衆の受動的な立場を、唄うことで「参加する」という自発さを促す。ルターの音楽に対する情熱は、「神の最高作品の音楽の中に、神の純粋で完璧なる賢明さがある」と。多声音楽が、まるで「神聖なる舞(ダンス)」であるかのように、空間を周り、舞い、感覚に訴える、と考えていた。
聖書(神の言葉の本)を読み解釈する、という文学的な側面と、創造物(=地球・天体、神の作品)を理解する、という数学的、観測的な側面との間に類似性が存在した。

この類似性に「音楽」が関係していた。

プラトンも、天球のハーモニーについて言及し、それは、キリスト教に引き継がれ、中世を経、ケプラーは、音楽と天体の関連性をより発展させる。

レティクスは、音楽を作ることと、数学を行うことの類似性を見いだす。

ガリレオは、もはや星達のダンスから地球が外されることはない、と考えていた。

Helio-centric.jpg


ルター派のレティクスと異なり、ルターは、コペルニクスの地動説に対し、「聖典に反する愚か者」と言及したとのこと。
レティクスの師で、何かとレティクスの援助もしていたメランヒトンも、「ポーランド人の天文学者か、地球が動き、太陽を“動けなく”しているのは。」と、コペルニクスの説には否定的な態度。

コペルニクスもレティクスも、神の創造物である宇宙が、複雑であるはずはないと考えた。中央で、太陽が全てを統治し、最も美しい神殿/教会から全てを一度に照らす、と。

地動説を唱えたのは、コペルニクスが初めてではないが、数学的に立証したのが、コペルニクス。多くの異論を唱えた天文学者、例えば、オシアンダーは、コペルニクスの説は単なる数学的モデルで、現実との関連性はない、と否定している。


私が最も気になる点、芸術にも宗教にも関連したと考えることは、地球から太陽までの距離は、とてつもなく遠い、とコペルニクスが述べたこと。プトレマイオスのシステムでは、地球を中心とし、天体が一日で回るので、惑星が遠くにあることは難しい。つまり、天体は必然的に小さくなる。さもなければ、ものすごい速度で回転する必要性があるから。この視点で、絵画、建築を観察すると色々見えてきて面白い。


Reference:
― Danielson, Dennis. The First Copernican: Georg Joachim Rheticus and the Rise of the Copernican Revolution. New York: Walker&Company, 2006.
― Hobson, Art. Physics Concepts and Connections, 3rd ed. New jersey: Prentice Hall, 2003.

On-the-Revolutions-2nd.jpg
コペルニクス死後出版『天球の回転について』(第二版 タイトルページより)

ラベル:宗教 ガリレオ
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2008年07月03日

チェザーレ・ボルジア(1475ー1507)

歴史上会ってみたい人の一人、チェザーレ・ボルジア(1475ー1507)
ダ・ヴィンチが、チェザーレの元で軍師[*]として滞在していたことが、会ってみたい理由の一つでもある。
* 諸葛亮 孔明のような軍師ではなく、より芸術的で且つ技術面に長けていた顧問技師のような立場。


パオロ・ジョヴィオ(1483ー1552:医者、歴史家、伝記作家)著書にあるチェザーレの版画図と比較しながら、ダ・ヴィンチのこのスケッチ(図:複製)がチェザーレであろう、とValentiner 氏は推測。

Cesare-Borgia-2.jpg

MayBeCesareBorgia-1.jpg
copyright 下記 参照


ローマを訪れた時、偶然ボルジア家についての展覧会があって、非常に嬉しかったのを覚えている。

チェザーレの肖像画がほとんどないのは残念。アート系の雑誌、それも20世紀前半に書かれた記事でチェザーレの顔(?)が紹介されていた。

当時チェザーレは、チャーリー・チャップリン(1889ー1977)と同じくらい人気があったと同時に、[イエス・キリストの誕生を恐れ、ベツレヘムの幼児の皆殺しを命じた]ヘロデ王と同じくらい嫌われていた、と、Hevesy氏は記事(1932年発行)の中で表現している。それくらい著名であったという表現が面白い。俳優の人気と同じように、民衆の関心に波があったとも。

アレクザンダー6世の死去後のチェザーレの権力失墜後に作られたメダル。
同じメダルのようだが、表情が異なって見える。角度、光の当たり方で、これほど表情が変化する。

Hevesy 氏の記事でのチェザーレ。
CesareBorgiaMedal-1.jpg


Valentiner 氏の記事でのチェザーレ。
CesareBorgiaMedal-2.jpg
copyright 下記 参照


高貴の人の間で、メダルは名刺の役割を果たしていた、という作家もいる。

ヴェネツィア宮の失われたオリジナルの肖像画のコピー。(Hevesy 氏の記事)

Cesare-Borgia.jpg
copyright 下記 参照



copyright & reference

Valentiner, W. A. "Leonardo as Verrocchio's Coworker." The Art Bulletin, Vol. 12, No.1, (Mar., 1930): 43-89

Hevesy, Andre de. "Portraits of the Borgias-Cesare." The Burlington Magazine for Connoisseurs, Vol. 61, No. 353, (Aug., 1932): 70-75
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ミニ「天文学史」− 3

コテコテのカトリック信者コペルニクスによる、気の進まない出版、「天球の回転について」までの経緯。(死の床でその本を見たコペルニクス)


● 地動説を唱えたとして有名なコペルニクス(1473ー1543)●


Copernicus-banknote.jpg(*)
Image © Jacob Lewis Bourjaily


Frauenburg カテドラルは、聖母マリアのカテドラルで、フランスのノートル・ダムよりシャープな感じのゴシック建築であったろうと思われる。(Virgin Mary → Our Lady → ドイツ語では、Unsere Frau)[第二次大戦に大打撃]

10歳で父を亡くした後は、そのFrauenburg カテドラル(↓地図参照)の司祭である叔父がコペルニクスの保護者となる。

Frauenburg.jpg
Image © Google Map


コペルニクスは、まず現ポーランドの中央に位置するWloclawekの大学で3年勉強し(当時の天文学、数学も含む)、将来の司祭として教会法学の学位取得のため、イタリア、ボローニャ大学で3年在学。教会法学終了の公式な書簡を得、定期的な収入を得ることができたことから、それまでの財政面の重荷がなくなる。この頃(コペルニクス、24歳)より天文学教授の元、月食を含む、天体観察が始まる。
コペルニクスは、1500年の聖年をローマで祝う。つまり、ボルジア家の教皇アレクサンデル6世の時代。約1年、ローマにて数学と天文学を学び、Frauenburg の叔父の元に戻る。

しかしながら、学位を取得したわけではないので、法律と医学を学ぶためにイタリアに戻る。ボローニャではなく、パドゥア大学に入学。
【過去記事:パドゥア大学解剖学の話と時代

コペルニクスは天文学と医学をパドゥア大学で学ぶ。当時の天文学は、基本的には占星術。占星術が医学との関連も強かった時代。
最終的に、ボローニャ大学でもパドゥア大学でもなく、フェラーラ大学で教会法学の博士号を取得。フェラーラで医学も勉強。
当時、フェラーラは教皇アレクサンデル6世の娘ルクレツィアと結婚したアルフォンソ・デステ(芸術家パトロンのイザベラ・デステの弟)の父の統治下。こういう風に眺めると、コペルニクスは、ダ・ヴィンチと同じ街にいたこともあったんじゃないか、と思えてくる。司祭も芸術家も統治者との強い交流があった時代。

Copernicus-stamp.jpg


1512年(コペルニクス39歳)に保護者であった叔父がなくなり、Frauenburg、Ermlandにて司祭を継ぐ。継いだことにより、自分の時間に余裕ができ、天文学に専念。裸眼で観察をする。

1514年秋には自筆による本を作成。その本、Little commentaryの中で、地球は天体の中央には位置していない、ことを述べている。
注目したいのは、カトリック司祭のコペルニクスは教会に歯向かうつもりはまるでなかったこと。(** 3年後の1517年にルターのプロテスタント活動が始まる。)
コペルニクスは、プトレマイオスの天体システムに疑問を感じ、調べているうちに天動説の誤りを発見したのである。例えば、地動説での火星の見かけの逆行運動を説明するために導入された複雑な天体のシステムに疑問を感じた。とは言え、プトレマイオスへの敬意が損なわれることはなかった。

地動説を信じたコペルニクスだったが、天体の外側の透明な球の存在(はりついた☆も)は信じ、神が天体の外側から全体を見ていた、と考えていた。

これまでの説と異なるコペルニクスの1514年時のまとめの一部。
1.宇宙の中心に中心となるものはない。
2.地球の中心は、宇宙の中心ではない。
3.宇宙の中心の近くに太陽が存在する。

イタリアから遠くに住んでいたコペルニクスだったが、1514年の暦の改善の際、教皇レオ10世がアドバイスを必要とし、専門家達をローマに呼び寄せる。コペルニクスは、その専門家の一人として名前があがっていたが、ローマには行かず、書簡でのやりとりのみ。

コペルニクスは、自分の研究に打ち込める、静かな暮らしを所望。


それゆえ、ウィッテンベルグ大学の数学と天文学の若い教授、ゲオルグ・レティクスがいなければ、コペルニクスの「天球の回転について」は出版されなかっただろう、と言われている。


ウィッテンベルグ大学には、元々ルターも教授としていた大学で、レティクスの時は、メランヒトンがプロテスタントのリーダー。メランヒトンがレティクスの師でもあった。

そのレティクスとコペルニクスの出会いは1539年5月。神学ではなく(という条件付き)、天文学の件で、レティクスがコペルニクスと会うことを望んだのである。

宗教の対立を超え、二人はまるで旧知の仲のような関係になる。(41歳の年齢差。先生と生徒、親子のような関係。)


RheticusArms.jpg
左記:レティクス母方の紋章。ネギがかわいい。

Image © Dennis Danielson, The First Copernican: Georg Joachim Rheticus and the Rise of the Copernican Revolution (New York: Walker&Company, 2006), next to the title

〜〜 続きは次回 〜〜



(*)1982年、お札の顔となったコペルニクス。
コペルニクスは、経済に関する書を出している。当時はお札がなく、コインのみ。銀と銅の混合のお金は、その銀の比率が下がるとコインそのものの価値も下がる。それゆえ、比率がまちまちだと、銀の比率の高いお金はタンスの肥やしとなり、悪質なコインが経済を循環することになる。それは経済の悪化につながる。コペルニクスはそういったことを観察し、まとめた。



Reference:
ー Danielson, Dennis. The First Copernican: Georg Joachim Rheticus and the Rise of the Copernican Revolution. New York: Walker&Company, 2006.

ー School of Mathematical and Computational Sciences, University of St Andrews, Scotland


天文学はさておき、1500年時を身近に感じたい人へお薦めの小説
塩野 七生著:「ルネサンスの女たち」(イザベラ・デステ、ルクレツィア・ボルジアなど)、「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」


ラベル:宗教
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2008年07月02日

ミニ「天文学史」− 2

紀元前4世紀、アレクサンダー大王が、アフリカ西海岸沿、地中海東側、特にエジプトに新しい文化繁栄をもたらす。プラントやアリストテレスの思想が、アレクサンダーの帝国を通じて広まる。紀元前331年に大王によって設立されたアレクサンドリア。

Alexandria.jpg
Image © Google Map

アレクサンダー大王以前は、政治も倫理的なことも、科学、数学的なことも全て同じ土壌で、多くの場合、同じ人々によって議論。
現代の科学的な感覚、“特別な技術を持つ人が、政治とは無関係で、独立して小規模なグループをベースとして研究を行う”という感覚は、アレクサンダー大王による征服後、アレクサンドリアにて芽吹く。 アレクサンドリアにて、量ベースの(原始的な)科学が始まる。

ギリシア人、プトレマイオス(about 85―165)も、アレクサンドリアの天文学者(数学者)。プトレマイオスの理論は、アリストテレスの天文学に関する確信をベースとし、観察&計測。
とは言う物の、現代の科学とは異なる。

が、17世紀に至るまで、プトレマイオスの説を覆すのは容易なことではなかった。


プトレマイオスの天動説は、数学的な分析ベースで、貼り付いた星星の球内の中央(付近)には、地球が位置する。おのおのの天体の動きは独立し、惑星間の距離を考慮していないものであった。中世を通じて、その球の大きさは、科学的な追求もされず、哲学的な憶測を超えるものでもなかった。

アリストテレスの説では、地球は宇宙の中央で”休んで”いる。(静止している。)
そうなると、当然、説明できないことが出てくるため、それに対応すればするほど、天体のシステムが複雑化する結果となる。

◯ 太陽と惑星が、地球と近くなる時期と、遠くなる時期がある。惑星が早くなったり、遅くなったりしているように見えることに対応する必要性。
ーー> 地球は、中央に位置せず、少しズレた場所で静止。中央を挟んで対称する位置には、エカントを設置。

◯  惑星の逆行を説明する必要性。
ーー> 従円(デフェレント)と周転円(エピサイクル)の作成。




★☆★ わかりやすい動画を紹介しているサイト
(スクロールをして、動画や他の画像を是非見てみてください。)
→ Department of Physics, University of Oregon
→ California State University, Fullerton


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時代はルネサンス。

ローマ教皇ユリウス2世のプライベート図書館 Stanza della Segnaturaの天井画の一つ。(「ラファエロの間」)


Raphael-Stanza.jpg
ラファエロ作: 1508 to 1511


壁画の一つ「アテネの学堂」
(下記、画像をクリックすると、元の大きなイメージにリンクします。)
SchoolofAthens-Raphael-s.jpg

  
この壁画で、なぜか目が合ってしまうのが、向かって左端の子供。右端のラファエロ(1483―1520)。そして、左中にいる女性[アレキサンドリアのハイパティア(370? ―415)であると言われている。]

ラファエロの自画像の横、冠をかぶり、地球儀を持っているのがプトレマイオス。
プトレマイオスは、ラファエロを見ているようである。
SchoolofAthens-Raphael.jpg

SchoolofAthensHypatia.jpg
アレキサンドリアのハイパティア(370? ―415)は、ノーベル物理化学賞受賞のキュリー夫人以前の女性科学者の中で、最も有名とも言われている。

ハイパティアの父親は、テオドシウス1世の治世時に、有名な数学者/天文学者であり、アレクサンドリア博物館所長を勤める。ハイパティアは、父親を凌ぐ才女であったと記されている。 アルカディウス治世下では、新プラトン主義哲学校の校長も勤める。
ハイパティアは、天文学、数学、哲学だけではなく、天体観測用(&時間計測や十二宮図のための器具)のアストロラーベのデザインや、水を蒸留するための器具を向上。
*参照:Institute & Museum of the History of Science
→ アストロラーベ コレクション。

過激キリスト教サイリルが総司教になって以後、キリスト教徒の狂信的な行動は加速し、415年に捕らえられたハイパティアは、裸にされ、息途絶えるまで貝殻で肉を剥がれ、死後、四つ裂きされ燃かれる。



ラファエロが天文学者の側に立ち、こちらを見、ローマ教皇の図書館で、キリスト教徒に殺害された異端の女性(天文学者)もこちらを見。。。


ラベル:宗教
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2008年07月01日

美術史家卵によるミニ「天文学史」− 1

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元々は、16世紀作であると言われている木版画。1907年の出版物でアール・ヌーヴォーの作品との説もあり。


宗教の枠の中で、科学史が哲学、芸術(建築、絵画、彫刻など)に非常に関連があることを実感し、普段耳にしないであろう科学史の面白さをちょっぴり書いてみようかな、と。(全部書くと、本になってしまうから。)

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1543年はヴェサリウスの解剖学書とコペルニクスの著書が出版されたことにより、科学史にとっては重要な年。

コペルニクスの地動説の再発見以前、中世では特にアリストテレスの天体の定義が信じられ、それによると、地球上の物質は「火、水、土、空気」の不完全な、完璧な元素ではない、四元素の組み合わせからなり、天体は完璧な元素、第5元素でできている。そして、宇宙は有限である、と。

アリストテレス説を基本としたローマ時代のプトレマイオスの天動説に、キリスト教理が組み込まれ、中世では、土星の外側の透明な球には、☆☆☆星☆☆☆がはりつき、天使がまわしている説が信じられていた。[紀元前3世紀既に、アリスタルコスが太陽中心説を唱えていたが、受け入れられてはいなかった。]

約1800年間!!! 長い。


ダ・ヴィンチのように月食を観察していた人は例外として、上記の説が一般的であったルネサンス時代。


どの時代もパトロン、アートを必要とし保護した人(アートの価値を見いだし、お金を払い、アートの力を利用した人)がいたために、過去に創られたアートが現在でも見ることができる。

中世、ルネサンスもパトロンの役割、存在は大きく、カトリック教団の力を無視できない。

つまり、パトロン(宗教関係の高位に位置する人:教皇、枢機卿、司教など/皇帝などの権力者)がどういうふうに神の存在を意識していたか、アーティストがどう神の存在を意識していたかが、芸術に反映されている。

神の存在をどうとらえていたかは、例えば、絵画では、空の穴/割れ目からの「光(の射)」は、空が有限であるという認識の反映のようでもある。

ゴシック様式の建築物にも神の存在の意識は顕著に現れている。12世紀、ゴシック様式カテドラルの発案者と言われている、修道院長シュジェール。教会を「神の国の象徴」として考え、その意を反映した結果が、ゴシック様式の誕生、と言っても過言ではない。
ゴシック様式のカテドラルは「神の国の象徴」であるから、その後どんどん高くなる。(天に近づく。)
ゴシック様式カテドラルの天井には何が見えますか?

ーー> バベルの塔の建設意識とは異なる。


この意識を揺るがしたのが、天文学史の発展である。

ラベル:宗教
posted by mandelin-coffee at 11:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 美術史 経由 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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