2011年07月14日

塩野七生 著:日本人へ リーダー篇のブック・レビューへの所見

読売新聞「本よみうり堂」に記載されていた、 東京大学史料編纂所、本郷和人准教授によるブック・レビュー、論客の叱咤が迫る「覚悟」: 日本人へ リーダー篇/国家と歴史篇 塩野七生著読売新聞:新刊批評:2010年8月1日)への所見:


この書評は、塩野が、古代ローマのリーダー、カエサルやアウグストゥスによった巧みな政略の例を引き、「計画的な駆け引きのできない(現代の)日本人」による外交・軍事の低迷を指摘する書である、と始まる。日本中世史専門の本郷氏は、物事を有利に展開させるための策略や駆け引きに日本人が弱いのは、「日本の前近代史のどこを探しても、政略を巧みにあやつった名手は、残念ながら見いだせない」ためであると補足をし、グローバリゼーションが進んだ今、「政略」とは何を意味するのか塩野の著作から学ぶことは多い、と書評を締めくくる。

序論と結論では塩野氏の著作を称賛する一方、この書評の主要部で 本郷氏は塩野の歴史的人物の客観性を指摘する。この書は古代ローマ時代の英雄の「時を超えた提言」ではなく、塩野の直言であり、その英雄らが実際に、塩野の「造形した人物」と一致するかは別問題である、と。同時代の政治家の本心がどこにあるかを見きわめるかが難しいように、時代が離れていては直接インタヴューする機会もなく、 この本郷氏の意見に異論はない。しかしながら、本郷氏によるこの指摘の説明にいくつかに疑問を感じるため、ここに私の見解と補足説明を二点、下記に記す。

1)時を超えて有効な Ars rhetorica と、政略の関連性を理解すること

『日本人へ』に登場する古代ローマ人は、塩野の「造形した人物」である、という指摘を説明するために本郷氏が用いた、下記のブドウ酒の例えは、この記事の読者には誤解を与えかねない。本郷氏曰く:

私たちはずっと昔からブドウ酒を飲んできたけれども、古代ローマのやり方でそれを作りつづけてはいない(「歴史ことはじめ」より)。ブドウ酒の製法が変化するのと同じく、人間の考え方や理念、それに感情すらも、時間とともに推移する。昔の人の行動を、今の私たちの理性・感性で捕捉すること はきわめて困難である。だから読者をひきつけてやまない塩野作品中の英雄たちは、あくまでも彼女が造形した人物なのであって、歴史の実像に近いかどうか は、またちがう話にならざるを得ない。

現代の技術で作られたブドウ酒と、古代ローマのやり方のブドウ酒製法の比較では、現代ブドウ酒の方が、洗練された製法である、定期的に購入して飲みたい、と考える人の方が多いであろう。科学工業技術の発展とそれによって快適となった生活に慣れている我々にとって、現代の方が「進んでいる」と考えがちなのは、私も含めて避けられない落とし穴である。

『日本人へ リーダー篇/国家と歴史篇 』が、今必要とされている書であるなら、現代と古代の理念や理性の差を指摘するより、なぜ、どうやって、塩野が古代ローマの「政略」が長けていたかを悟ったかを理解する必要がある。

カエサル、そして彼の同時代のキケロなどの書簡が現存しているが、弁論技術が使用された文章構成そのものが、政略とは何かを伝えるのである。科学技術の発展のために、古い物が流行遅れと扱われがちである現代であるが、現代でも未だ超えることのできない文章構成の基礎を伝えるのが雄弁家キケロやギリシア哲学者アリストテレスの書である。

「雄弁家に必要なのが弁論術/修辞学」と書くと、漢字から受ける印象と、言葉の響きから、弁論大会などを思い浮かべて、それに出る人の技術と思い浮かべては、日常使用とかけ離れる。古代ローマの修辞学者クインティリアヌスは、Ars rhetorica(訳:弁論術・修辞学)を「きちんと話す術」とし、「話す必要のある内容にあった正しい表現方法の術」と説明する。クインティリアヌスの著作『Institutio Oratoria(訳:弁論家の教育)』は、きちんと話す術の教育方と、きちんと公で演説ができる人になるためのマニュアル的な本であるが、読むとこの技術習得には並々ならぬ訓練が必要なことを実感させられる。歴史や詩の習得、身振りと身だしなみの詳細なども盛り込まれている。弁論術が政治に有効であった点は歴史が語るところであるが、政治家に限らずとも学ぶべき点は多い。

巧みな言葉の使用(Ars rhetorica)は、 国と国の外交だけではなく、 恋愛の詩や紀行にも使われ、Ars rhetorica が用いられた古典文学の内容の濃さは、今でも西洋教育の基礎として使われ、文学・言語専門家も師として仰ぎ分析に勤しむ。キケロやクインティリアヌス、ウェルギリウスやオウィディウスの作品の一文一文から、あるいは、一ページ一ページから発せられるパワーは、読み手を感嘆し、想像力を刺激し、心臓が震える感動と与え、言語の豊富さ、観察力の豊さ、説得力の力強さに読者は圧倒されるのである。言葉一つ一つの選択の完璧さが、文章を波のようにうねらせ、その波動が読者に伝わるのである。言い換えるなら、言葉一つ異なるだけで、そのうねりの速度が鈍るのである。アメリカ合衆国のオバマ氏が大統領として就任したのも、Ars rhetorica が用いられた文に説得力があったから、というのはカナダでも有名である。Ars rhetorica は、時代を超えて有効なのである。オバマ氏の演説が、知識人、中産階級、労働者階級全てを説得できたのは、 Ars rhetorica を用いたからである。ブドウ酒製法では、これは説明できない。ブドウ酒が今も昔も飲まれているように、Ars rhetoricaで構成された文が人を酔わせる、と私は思う。

塩野は、この Ars rhetorica の使用されたカエサルやキケロの文を読み、言葉の構成を説明するのではなく、その演説により、政治や政策がどう変化した点に注目する。塩野の方法は、 ラテン語の演説文を全文訳し、コメントするのではない。Ars rhetorica に適する日本語がないように、そもそも、その原文が持つエネルギーをそのまま残したまま訳すのは困難である。そうではなく、塩野の方法は、その生き生きとした原文から彼女が感じたものを抽出し、彼女の言葉(日本語)で、日本の読者の脳に、カエサルやオウィディウスのいたローマを生々と映し出しながら、彼らの統治力、判断力、洞察力を伝えるのである。

ルネサンス時代のヒューマニスト達が、キケロに惚れ込み、Ars rhetorica を身につけたのは、キケロの優雅で、コシとウネリのあるラテン語に圧倒され、キリスト教の政治や文学にもその言語の持つパワーは活用できると熱狂したからである。フィレンツェのヒューマニスト達は、その言葉の美しさと賢明さがもたらす徳を活かすことで、個人(キリスト教徒)としても、社会にも貢献できると考え、積極的に古代の文献の習得し、自分の考えとともに解釈書、物語、評論文、外交文、詩と、ありとあらゆるジャンルに活かしたのである。さらに、教育改革も行い、必須科目に Ars rhetorica を取り入れる。14世紀の終わりにミラノを支配していたヴィスコンティは、敵対国フィレンツェのヒューマニスト、サルタティの外交書簡一枚が、千人のフィレンツェの騎手より価値がある、と述べている。一枚の書簡が、知に溢れ、敵の攻撃を抑える力があったのである。

英語が国際語になった主な理由の一つに、Ars rhetorica の法則を英語に見出し、習得し、教育に取り入れ、次の世代にも引き継いでいるから、と私は考える。大学の科目に Rhetoric があり、政治家、ジャーナリスト、作家を目指す生徒でなくても勉強できるようになっている。 Ars rhetorica を使うにあたり、言葉や文、内容の構成を行なう前に、誰が聴衆/読者であるか、という対象の選択が不可欠である。この訓練は多目的に有効な技術なのである。グローバリゼーションが進んだ今、もし日本人が外交能力を高めたいのであれば、時代を超えて有効性を保つ Ars rhetorica を習得する必要性があると思う。実際、日本の政治家と国民のコミュニュケーションが良いようには思えない。日本の政治家が、Ars rhetorica を習得するだけではなく、教育の一環に採用するなら、日本語の素晴らしさを認識する機会にも、国(知)力が上がる機会にもなる。


2) 歴史家と作家の役目の差

本郷准教授は、歴史学者の苦労、努力、解釈について下記のように述べ、作家は歴史学者と異なり、想像力を駆使できる、と説明するが、その比較と説明は、塩野を正当に評価していないように思う。本郷氏によると:

そもそも歴史の叙述は、歴史資料に誠実にむきあい、それを徹底して読みこむことによってなされる。だが遺物である歴史資料は数が乏しいから、ここで道が分岐する。良心的な研究者は、使用できる資料を少しでも増やす作業に没頭する。作家は豊かな想像力を 駆使して、資料の欠をうめていく。後者の代表が塩野であることはいうまでもない。だから、どちらがおもしろい成果を残せるかとなれば、並の歴史研究者が束になっても彼女にはかなわない。その存在感は圧倒的である。

歴史学者は、弁護士のように、現存する資料で他者を説得する必要性があり、思いついたことを安易に述べることは許されず、自らの推論を証明するための資料や自分の疑問を解決するための資料を探さざるを得ない。ただし、資料があったとしても、他の疑問が出てくるのは避けられず、推論はあくまで推論であり、個人の解釈が他の研究者に受け入れられるとは限らない。日本語の15世紀の資料の内容を、現代の日本語に「訳す」なら、訳者の解釈によって訳の内容は変化する。想像力で「資料の欠」を埋め、それが実際にあったこととするなら、捏造行為で、ルール違反であり、その者を歴史学者とは呼ばない。使用できる資料を増やすのが、歴史学者の役目であるゆえ、その者を「良心的な研究者」とは呼ばない。

専門範囲に興味がある読者に限定される、歴史学者による著作と異なり、作家は、より広範囲の読者を相手にする。そのオーディエンスによって内容のトーンも変化する。歴史学者の専門書より、作家による本(特に塩野の作品の場合)は、広範囲の読者に興味を与え、好奇心をそそり、自学への門を開く効能を持つ。塩野の『ローマ人の物語』の参考文献一覧表は、並みの歴史家に匹敵する量である。英語の歴史学者による注釈よりは、塩野の注釈が少ないが、『物語』である以上特に問題はないように思う。資料や文献からの引用、あるいは、他人のアイデアの引用にも関わらず、塩野以外の日本の著作内での注釈の少なさの方が問題である。

確かに、塩野の作品では、個々の英雄が塩野流で作られているのは事実で、 彼女の豊かな想像力と文才は読み手を興奮させるが、塩野が読んだ資料や見た遺跡が、彼女に語ることも多いのではないだろうか。Ars rhetorica の使用された文章は、聞き手や読み手にイメージを抱かせるパワーを持つ。特に、カエサルやキケロの文章を読んだことがあれば、ローマで遺跡を見ると、まるで、彼らが目の前に現れ、話をしているかのように感じるであろう。カエサルやキケロの文章を読んだことがなくとも、塩野の 『ローマ人の物語』を読んだ者にとって、その遺跡は、遺跡ではなくなるほど、生き生きとして見える。建物も未だ生きているのである。歴史を知ることは、遺跡に息を吹き込むと感じるのは私一人ではない。

塩野の文体は、聞き手を気遣いつつ、堂々とした話し家のように説得力がある。彼女のような存在が、なぜ、政治家として日本で存在しないのか、疑問である。本郷氏のように「日本の前近代史のどこを捜しても、政略を巧みにあやつった名手は、残念ながら見いだせない。。。。利害を度外視して正義を行うところに日本人の美学があった。。」それゆえ、利害を度外視する「政略」という国際政治に対応するのには、これまでのやり方では無理で、「その無理を成し遂げなければな(い)」、という意見には賛同できない。本当に、前近代史に説得力のある文を構成でき、世界と交渉できる日本人は存在しなかったのか?それとも、塩野のような存在を、政治家として持てない環境に、実は問題があるのではないだろうか。
posted by mandelin-coffee at 19:58| つつ うらうら | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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