1892 <pencil on paper>
Zentrum Paul Klee, Bern

スイスの首都ベルン(*)で育ったKlee は、そこで父が音楽の先生だったこともあり、少年時代は、バイオリニストとデッサンを得意とする画家として才能を発揮した。
学校卒業後はミュンヘンでARTを勉強する。20歳頃、1900-01はFranz von Stuck (!) の元、ミュンヘン学院に所属。
ミュンヘンでも、Kleeは音楽を演奏したり聞いたりしている。Kleeの経験は1989年から1918年まで日記に詳しく綴られている。その日記の中で、専門技術を物にする苦労や、日々の生活だけでなく、哲学的な言い回しや、詩、Kleeが出会った音楽とARTへのコメントが記録されている。
1901年にKleeは、彫刻家Hermann Haller とともにイタリアを旅行し、特に古代の彫刻、ローマの建築とポンペイのフレスコに感動している。
その後1902年にベルンに戻り住む。この頃の作品は、イタリアの古代の遺物(ARTも含む)を見た経験が大きく反映されていると同時に、Symbolism(シンボリズム) に辿る線を強調する手法を使い、作品のテーマに皮肉的な悲観論が見られた。
(Symbolism(シンボリズム)−− 印象派の後、それに異を唱えたARTの流れ :
Gauguinゴーギャンが主要人物。
日本では、後期印象派、と言われているが、「印象派の後」で、「印象派」を批判したグループなので、ここでは、「後印象派」と記す。)

1903
<etching>
Zentrum Paul Klee, Bern

Pessimistic symbol of the mountains
1904 <etching>
Zentrum Paul Klee, Bern
1904 <etching>
Zentrum Paul Klee, Bern
その風刺的な主題はKleeの生涯を通して最大の関心事であったであろう。例えば、Hero with the Wing (1905) は、人間の経験や生きることの皮肉さを表現している。つまり、人間の広がる大望は、俗世の身体的限界によって避けられず引き戻されるように思われる。。
Kleeのベルンで生活しながら、しばしばミュンヘンを訪れている。
1905年の春にKleeは2週間パリで過ごしていて、パリの同時代の作品(印象派など)よりは、ルーブル美術館で特にレオナルド・ダヴィンチを中心に16世紀から18世紀初めまでのArtistsを勉強している。
ミュンヘンで1899年に出会っていたピアニストのLilyと1906年に結婚。ミュンヘンに移住し、翌年には息子誕生。
その後5年間の間、Kleeは、自己の作風を追求するため、忍耐強く、以前より孤独な中で仕事を続けた。Kleeは「光と影」を巧みに操ることを通して表現することを追及した。そして、その「光と影」をペンやインク、淡彩画(watercolor wash)によるデッサン、線図の中で探求した。
Kleeは、また、幅広く仕事をし、ガラス上に絵を描いたり、黒系の表面に白の線を描くこともした。この時期、Kleeは、ミュンヘンでの印象派、後印象派による作品展に非常に注目し、特に、初めVan Gogh、後に、CezanneとMatisseに感心を持った。
Kleeは、何より、「手段と方法の純粋な(機能の)開拓」を到達するため、(景色や目に見えるものの)単なる模倣という機能を超えて、線と色調を、自分自身の言葉の表現として使うことを意図した。
ラベル:Paul Klee
勉強になりました♪
UK在住なんですね。
水墨画の世界が懐かしくなりませんか?
今後ともよろしく。